現存する日本最古の大型遊戯機械と言われています。昭和4年に生駒ケーブルの山上線が開通と同時に「生駒山上遊園地」も開園したわけですが、この遊園地の「目玉」として作られたのがこの飛行塔で同じ昭和4年の開業です。製作したのは「わが国の大型遊戯機械の父」と呼ばれた土井万蔵氏で、彼にとっては16基目の飛行塔だそうですが、規模の大きさや、その後永く残ることとなったことなどから、土井氏の代表作とも言われています。
写真でその構造を見れば想像がつきますが、昔はエレベーターが稼働していて、上の部分は展望台になっていたということです。何しろ製作されていた頃は、まだケーブル山上線も開通していない時代だったため、建造に必要なすべての資材は強力(ごうりき---荷物を背負って山の上まで運搬するのを仕事とする人)が肩にかついで山頂に上げたという話です。
昭和16年末頃から始まった太平洋戦争によって日本国内では食料をはじめ様々な物資が極度に不足することとなりましたが、敗色濃厚となりつつあった昭和19年に金属回収令という法律が発令されました。これは当時戦争に使う兵器、機材を作るために必要な金属材料を調達するために、全国津々浦々から、「およそ金属が含まれるものはすべて」といった感じで国(軍)に供出するように命じたものです。これには日用品などの他、お寺の鐘(梵鐘)、さまざまな(人の)銅像、鉄道のレールなどもも含まれており、全国的にこの時期、金属を含む「あらゆる種類の物品」が本来の場所から姿を消し、武器、銃弾、兵器などの原料へと転用されたのでありました。たとえば、東京渋谷の「忠犬ハチ公像」や北海道大学の「クラーク博士像」なども、溶かされて「鉄砲のタマ」や「飛行機」に化けた、という話がよく言い伝えられていますし、ここ生駒山でもケーブル宝山寺線が、レールの供出に見舞われ、複線だったのがしばらく単線になってしまった、という歴史もあります。
そんな戦争末期の頃の様子でしたから、特に遊園地の遊戯機械などもほとんどすべて軍事用に「供出」されてしまったことから、戦前に作られた遊具というのは全国的にもほとんど残っていないということです。数多くの大型遊戯機械を作り出した土井氏の「作品」も、この生駒の飛行塔と近鉄玉手山遊園地のメリーゴーランド以外はすべて失われてしまったらしいとのことです。(玉手山遊園地も閉園してしまいましたから、そちらはどうなったかな?)
なぜこの飛行塔が金属回収令にひっかからずに生き残れたのかというと、当時、生駒山上にはグライダーの練習場や航空関連施設があり、戦時中にはホテルなども軍用に接収され生駒山上遊園地付近は「軍事教練の施設」と化していたようです。さらにはその立地を活かしてこの飛行塔も軍の防空監視所として使われていたことから、供出を免れ、無事に戦禍の時代を乗り切ったという話です。だから飛行塔は「この場所」にあったからこそ奇跡的に生き残れた、と言うことができるわけで、何か運命の不思議のようなものを感じてしまいます。
「飛行機」部分とワイヤーなどの消耗部品を更新している以外は、ほとんど建造当時そのままの姿だということで、今から75年も前の昭和初期の遊園地遊具の様子を実感し、さらには土井万蔵氏の作品の真髄に触れることのできる大変貴重な乗り物です。