最近閉鎖された遊園地

      

最近、日本では、遊園地の閉鎖が、まるで連鎖でも起こしているかのように続いています。一体、どうしてなのでしょうか? 理由はいろいろあります。最後にまとめて考察したいと思います。皆さんも一緒に考えてください。

ここには最近閉鎖された遊園地の概要と、それを偲ぶことができるインターネットサイト(のページ)を一部、ご紹介します。

情報求む!

ここに掲載されていない遊園地の閉鎖情報がありましたら教えてください

閉鎖遊園地の情報が得られる良いサイトが他にあったら教えてください

     
1998年
玉手山遊園地(大阪府柏原市) 1908(明治41)年〜1998(平成10)年5月31日
経営:近鉄

花やしきに次ぐ日本の遊園地の老舗(西日本最古の遊園地の一つ)。 レトロな雰囲気が漂う、児童公園のようなこじんまりとした遊園地で、近隣住民などに広く親しまれていました。駐車場がない、駅から遠い、古墳群の一角で開発が難しい、などの問題点から年間入場者数6万人程度となり、閉鎖となりました。

主な遊具:アストロファイター、チェーンタワー、メリーゴーランドなど。他にジャングルジム、ブランコ、鉄棒、土管、滑り台(50mのものがあり人気が高かった)などの公園遊具もあり。

閉園後、遊具はほとんど撤去され柏原市立玉手山公園「ふれあいパーク」へ移行。公園になってからは年間入園者数が10万人を越えているとのこと。

<参考ページ>
想い出の玉手山遊園地へようこそ

玉手山遊園地<とぼとぼ散歩<退屈な日々

玉手山遊園地(公園)

潰れる前に玉手山遊園地を見ておこう!

   
          
呉ポートピアランド(広島県呉市) 1992(平成4)年3月20日〜1998年8月31日
経営:呉市と阪急電鉄の第3セクタ 

スペインの国際的リゾート地「コスタ・デル・ソル」をイメージしてデザインされたアミューズメントパーク。1987年、バブルの真っ盛りに「総合保養地域整備法(いわゆる”リゾート法”)」が制定され、これによって始まったの「第3セクタ方式テーマパークブーム」に乗って建設された、いわゆる「バブル企画」。絶叫系マシンが充実しており、当初、若者には「呉ポー」と呼ばれそれなりの支持を受けるも子供向けの遊具が少なく家族連れが行きにくい等の問題点があったそうです。最初年間90万人ほどあった入場者も30万人台まで落ち込み、100億円を超す負債を残して閉園となりました。

主なアトラクション:エボリューション(日本に一台しかなかったユニークな回転系絶叫マシン)、ジャイアントホイール(80m級の観覧車→後にスペースワールドに移設)、アンダルシアレイルロード(アントン・シュワルツコフの作品で神戸ポートピアランドのBMRに似た、岩山を走るコースター)、コンドルなど。

2000年に無料の公園(呉ポートピアパーク)として再開

<参考ページ>
呉ポートピアパーク(オフィシャル)

呉ポートピアランド<穴場探訪記

呉ポートピアランド真!さおの部屋

    
    
1999年
小田急御殿場ファミリーランド(静岡県御殿場市) 1974(昭和49)年〜1999年9月5日 
経営:小田急電鉄

東名高速道路の開通後5年目に開設。東名御殿場インター下車3分の好立地で、当時は国内の自家用車保有台数も倍増していた時期にあたり、高度経済成長、高速道路の整備、マイカーの普及といった時代の潮流に合致した遊園地であった。1980年頃には年間100万人近い入場者を記録。しかし、1980年以降はオイルショックによる経済成長の終焉と社会情勢の変化によって、次第に衰退。後年にはダンガイ、ガンビットの存在で、絶叫界にその名を馳せていましたが、入場者減に歯止めはかからず、閉園の前年には年間40万人程度にまで落ち込んでいたそうです。

小田急電鉄はこの前年の1998年に花鳥山脈(富士山麓のレジャー施設)、その後2002年には向ヶ丘遊園と、レジャー施設はみんな閉鎖しちゃったみたい。経営の苦しさが伝わってきます。

主なアトラクション:ガンビット(1995年B&M社製の1列4人乗りインバーテッドコースター)、ダンガイ(トーゴ社1988年製、立ち乗り&座り乗りの垂直ループコースター)、ロト・スピン、メガリス(急流滑り)

2000年、御殿場プレミアム・アウトレットに

<参考ページ>
1997年版小田急御殿場ファミリーランド

        
    
2000年
さやま遊園(大阪府大阪狭山市) 1938(昭和13)年〜 2000(平成12)年4月1日
経営:南海電鉄

地域密着型、小学生以下の子供御用達の小じんまりとした遊園地。昭和48年には年間入場者数54万人を数えましたが、時代の流れとともに静かにその役割を終ることとなりました。 

主な遊具:メリーゴーランド、大観覧車、ツインドラゴン、ジェットコースター、チルチルコースター、急流滑り、サイクルモノレールなど。夏のプール、冬のスケートリンク、小動物のいる「ふれあい動物園」なども人気。他にジャングルジム、滑り台、土管などの公園遊具も。

住宅地、防災緑地公園に

<参考ページ>

さようなら!さやま遊園地<想い出は永遠に・・<AyuとRyouの白いページ

さやま遊園閉鎖Sayama <「D.C.'s Day」より)

あれから1年さやま遊園--1年後のさやま遊園<南海高野線散策

   
      
到津(いとうづ)遊園(北九州市小倉北区)  1932(昭和7)年〜2000(平成12)年  
経営:西鉄(西日本鉄道)

昭和7年(1932年)、西鉄の前身である九州電気軌道が創立25周年の記念事業として開園。当初より動物園と遊園地を併設した公園として人気を博し、スペースワールドがオープン(1990年)するまでは北九州で唯一の行楽地でした。昭和44年には年間80万人ほどの集客力を誇っていましたが、それをピークに来客数は減少の一途をたどることに。閉園が発表された平成10年から市民による多数の署名を含む存続運動が盛り上がり、それが功を奏して北九州市が経営を引き継ぐこととなりました。2000年に一旦閉鎖の後、2002(平成14年)4月、北九州市の施設としてリニューアルオープン、小型遊具を少しだけ残した動物公園となりました。

主なアトラクション:スカイループコースター(垂直ループの2連続回転)など

到津の森公園」として再出発。自然を生かした「動物公園」です。

<参考ページ>
いとうづゆうえんの思い出 (いとうづゆうえんの思い出)

       
       
2001年
びわ湖タワー(滋賀県大津市) 1965(昭和40)年〜2001(平成13)年8月31日
経営:フタミ観光

最初はレストラン(ドライブイン)としての営業開始であったが、1967年に回転昇降式の展望タワー「びわ湖タワー」の導入を期に本格的なレジャーランドへの道を歩むこととなる。このびわ湖タワーはモントリオール万国博覧会(カナダ、1967年)で人気を博した回転昇降式の展望タワーの移設との説もありますが真偽のほどは不明。1979年には国産初の宙返りコースターと思われるドラゴンコースター(サノヤスヒシノ明昌社製ジェットスパイラルコースター)を設置。 

何と言っても有名だったのは、設置当時(1992年)世界最高(高さ108m)の大観覧車「イーゴス108」。名前の由来は「すご〜い」逆読みとのこと。イーゴスの誕生に伴い、タワーのほうはランドマークとしての地位を奪われたため、展望タワーとしての役目を終え、バンジー台へと変身し。これは「バンジー」、「逆バンジー」、「横バンジー」、「紐無しバンジー」の4つのバンジーを揃える仕様で、バンジーの名所などとも言われたようです。

最盛期(92年頃)には年間95万人を集めていたそうでが、晩年は(閉鎖前ですら)「廃墟マニア」の格好のターゲットとなっていた模様。

主なアトラクション:イーゴス108、バンジー、逆バンジー、スカイコースター(高さ36mのケーブルに吊り下げられて振り子状に振られるもの)、大急流すべり、ジェットコースター、ドラゴンコースター(2回転スクリュー)

跡地は、当初、場外馬券売り場建設が計画されたようですが、地元の強い反対運動があり、頓挫。遊具類、建物等も撤去されることなく放置状態で、より一層、「廃墟」としての価値を高めているようです。

<参考ページ>
び○湖タワー<廃墟<北陸廃物紀行

びわこタワー<廃墟<Star Palette(「廃墟」の中には他に2編のびわこタワー関連ページあり)

びわこタワー<動物園、B級SPOT大好き!〜ARAKAWA'S HOME PAGE〜

   
     
八瀬遊園(スポーツバレー京都 / 森のゆうえんち)(京都府) 1964(昭和39)年〜2001(平成13)年
経営:京福電鉄

家族向けの中規模遊園地。開設当初は京都市内でも数少ない家族向け娯楽施設として年間15万人ほどの入場者がありましたが、時代とともに入場者数は減少。1983年には若者向けスポーツ遊園地「スポーツバレー京都」へとリニューアルされたがになり振るわず。1999年3月には子供向け遊具を中心とした「森のゆうえんち」に改装されましたが入場者数は年間7〜8万人と好転せず。不況の他、京福越前本線で起きた2度の事故などもあって業績が悪化し、2001年11月30日で閉鎖となりました。

主なアトラクション:サイクルコースター、メリーゴーランドなど

跡地は売却され、「高級会員制リゾートホテル→コレ」がオープンの予定。

<参考ページ>
森のゆうえんち<ムーミン家の遊びある記<びわこのムーミンママ

       
      
2002年
横浜ドリームランド(神奈川県横浜市) 1964(昭和39)年〜2002(平成14)年
経営:(株)ドリームパーク(ダイエー系列)

日本のディズニーランドをめざして作られた奈良ドリームランドに遅れること3年で開園。1980年ごろの最盛期には年間入場者120万人を集めていましたが、本家ディズニーランドの日本進出とともに衰退。ただしそういった周辺事情ばかりでなく、閉鎖には諸々、経営側の問題もあったらしいです。

主なアトラクション:シャトルループ、フリーフォール、ボブスレー、メガダンス、潜水艦など。観覧車「ワンダーホイール」は、ゴンドラが「落ちる(または揺れる)」のと普通の2種類あって、「絶叫できる観覧車」として異彩を放っていました。

跡地は最初、ある会社が購入して中古車オークション会場が作られそうになりましたが、交通・環境問題等を考慮した横浜市がこれを買い取り、現在、公園(野球場)、墓地として整備予定とのこと。

<参考ページ>
Dream memories

夢の彼方へ・・・横浜ドリームランド<かっしー家の別館へようこそ!

   
     
小田急向ヶ丘遊園(神奈川県川崎市)  1927(昭和2)年〜2002(平成14)年
経営:小田急電鉄

鉄道の旅客誘致施設として作られましたが、小田急線の駅からやや遠かった(約1km)ので、駅と園入り口の連絡用に「豆汽車」を敷設開業。これはその後「豆電車」、そして「モノレール」へと引き継がれ、常に子供達の人気を集めていました。私も子供の頃、豆電車によく乗りました。

園自体は元々自然公園のような遊園地で、太平洋戦争による休園、荒廃を経て、戦後復興され、「花の遊園地」としての地位を築きあげました。昔あったウォーターシュートなども私にとっては懐かしい思い出です。

主なアトラクション:スーパーローラーコースター「ディオス」など。ディオスの前には「スカイハリケーン」という往復式垂直ループコースター(アトミックコースター、スカイループと同型)があった。

→跡地利用については、いろいろもめているようです(遊具等は撤去)→→向ヶ丘遊園の会(向ヶ丘遊園の会)

この一帯は行政から「緑地」に指定されているのと、土地の全部が小田急の所有物というわけではないので、なかなか話がややこしいようです。(「向ヶ丘遊園の会」の代表の方のお話)

<参考ページ>
向ヶ丘遊園メモリアル(向ヶ丘遊園メモリアル)

廃墟探索報告(向ヶ丘遊園)<廃墟探索写真館<廃墟デフレスパイラル

さようなら向ヶ丘遊園<特集<のりりん通信

   
    
ベイパーク石巻(宮城県石巻市) 1993(平成5)年7月〜2002(平成14)年

経営:万石ベイパーク(注:会社名です)

石巻地区で初の遊園地としてオープン。初年度は13万人の人出を数えたが年々減少。2001年度は年間3万人、売り上げ約5000万円と落ち込み、累積赤字約5億円となって閉鎖されました。

主なアトラクション:ジェットコースター、ツインドラゴン、観覧車、ロックンロール、パラとルーパー、メリーゴーランド、スカイサイクル、スリラー館。ミニ動物園やラビットランドなどもあった。

→跡地はイオン石巻東ショッピングセンターに(2005年7月オープン)

<参考ページ>
ベイパーク石巻<City Do!

遊園地事業から撤退 万石ベイパーク<三陸河北新報社 石巻かほく リアスの風

      
     
2003年
伏見桃山城キャッスルランド(京都市伏見区桃山町) 1964(昭和39)年〜2003(平成15)年

経営:近鉄

伏見城というのは、かつて文禄3年(1594年)豊臣秀吉が晩年の居城として建設したもので、大地震での倒壊、火災による炎上などを経て慶長7年(1602年)徳川家康の手によって再建。しかし元和9年(1623年)、一国一城の法度により廃城となり取り壊されてしまいました。そんな悲運の城ともいえる伏見城を近鉄が再現。1964年(昭和39年)、かつて城があった場所の近くに、大小の模造天守を建築。内部は桃山文化史館とし、遊園地を併設して、「お城のある遊園地」として親しまれてきました。

主なアトラクション:レートダンジョン(ジェットコースター)、ドラゴンシューター(急流滑り)など。その他、桃山文化史館の中にある「黄金の茶室」が有名。

跡地は公園になる予定。伏見桃山城は残るらしいです。

<参考ページ>
キャッスルランド閉園レポ<カサトレ京都雑文日記

伏見桃山城キャッスルランド訪問記<あやしい城

伏見キャッスルランド<動物園、B級SPOT大好き!〜ARAKAWA'S HOME PAGE〜

さようなら!伏見桃山城キャッスルランド<想い出は永遠に・・<AyuとRyouの白いページ

    
     
阪神パーク甲子園住宅遊園(兵庫県西宮市) 1932(昭和7)年〜2003(平成15)年
経営:阪神電鉄

阪神電鉄は大正末期から甲子園地域の開発(野球場などのスポーツ施設と郊外住宅)を始めましたが、その宣伝のため同地で1928年に開催した「御大典記念国産振興阪神大博覧会」の会場にあった大演芸場などの施設を、会期終了後も常設として営業した「甲子園娯楽場」が、阪神パークの起源です。

1932(昭和7)年に「浜甲子園阪神パーク」と改称。動物園、遊園地、演芸場などからなる総合レジャーランドとなりました。昭和10年には当時ではめずらしい本格的水族館(東洋一といわれた)が併設され大きな話題を呼んだとのこと。太平洋戦争で一時閉鎖の後、戦後は場所を移し、「甲子園阪神パーク」として再建。「おこさまは阪神パークがお好き」というキャッチフレーズが有名でした。

阪神パークの名を全国区にしたのは、昭和34年の『レオポン』誕生でした。 レオポンは雄ヒョウと雌ライオンを人工的に交配させて作った世界で初の雑種猛獣で、多くの注目を集めました。

昭和48年ごろには年間入場者数135万人を数え、最盛期を迎えましたが、昭和50年代になると、レジャーの多様化などから入場者数が減少。1991(平成3)年、遊戯施設を幼児向けに変更する大幅リニューアルを行いましたが、そういったさなか、1995(平成7)年、阪神大震災に見舞われ、来園者が減少すると、その後回復せず。

1997(平成9)年には、遊園地と住宅展示場を一体化させた遊園施設複合型住宅展示場としてリニューアル。名称も「阪神パーク甲子園住宅遊園」に改称し、入場料無料などの策がとられましたが、こうなると遊園地は名実ともに弱体化することとなり、ここにUSJの開園が重なって、万事休すということになりました。

跡地は「ららぽーと甲子園」になりました

<参考ページ>
さようなら阪神パーク<ご近所探検隊<神戸六甲道通信

想い出の阪神パークJunglinの懐かしのPhotograph<Junglin@Web Site

阪神パーク(阪神パーク甲子園住宅遊園)<動物園、B級SPOT大好き!〜ARAKAWA'S HOME PAGE〜

    
        
宝塚ファミリーランド(兵庫県宝塚市) 1911(明治44)年〜2003(平成15)年
経営:阪急電鉄

阪神パーク、ひらかたパークなどと並ぶ関西の老舗遊園地の一つ。明治43年、箕面有馬電気軌道の開通にともない、乗客の増加を目的として沿線に作られた「新宝塚温泉---千人風呂と家族風呂を売り物とした洋風リゾート地」がその起源。大正時代に日本初の女子歌唱隊(後の宝塚歌劇団)が発足、これが大成功をおさめたことから、レジャー施設としての発展も加速しました。いわゆる「遊園地」としての体裁がはっきりしたのは大正13年「宝塚ルナパーク(遊具を集めたエリア)」の開設で、その後、昭和にかけて遊戯機械の導入が続き、昭和6年には「宝塚新遊園地」として開業。昭和35年には新温泉、大劇場、動物園などの施設を統合して、全体を「宝塚ファミリーランド」と称するようになりました。最盛期には年間入場者数250万人を数えていましたが、近年では半減。最後はバブル崩壊後の不景気、阪神大震災、USJのオープンと続きノックアウトとなったようです。

主なアトラクション:古くは昭和27年に開業した「ウエーブコースター」は常設のものとしては日本初のローラーコースターとして知られています(初の国産コースターでもある:三精輸送機製)。最近では「ローラーコースタービッグワン(蒸気機関車スタイルのコースター)」、「激流下りクレージーダック」など。動物園のホワイトタイガーが有名でした。(1989年、初めて赤ちゃん誕生に成功。国内25頭のうち7頭がここで飼育されていた。)

跡地はガーデンゾーン(宝塚ガーデンフィールズ)、住宅地、商業施設などに。大劇場などはそのまま。

<参考ページ

さようなら、宝塚ファミリーランド<新着情報<ちょっとこファミリー

さよなら宝塚ファミリーランド<いそっぷの写真館<イソップの部屋

宝塚ファミリーランド 来春閉園!<月刊・お好み書き

さよなら宝塚ファミリーランド<けろがこ大冒険(旅行記)<けろずぺーじ

宝塚ファミリーランド<動物園、B級SPOT大好き!〜ARAKAWA'S HOME PAGE〜

  
    
カッパピア(群馬県高崎市)  1961(昭和36)年〜2003(平成15)年

経営:上信電鉄

高崎市は第二次世界大戦後の復興政策の一環として昭和27年(1952年)に「新日本高崎子ども博覧会」を開催。これが大盛況に終わったため、博覧会終了後に施設の一部を使って営業を開始した「市営遊園地」がその起源。1961年(昭和36)に地元の電鉄会社「上信電鉄」が経営を引き継ぎ「高崎フェアリーランド」として開園。昭和44年から「カッパピア」に名称変更。最盛期には年間60万人程度の入場者を記録したが近年では10万人前後まで落ち込んでいた。やはり「もはや役目を終えた」といった感は否めないですね。

主なアトラクション:宙返りジェットコースター(サノヤス製「ループ・ザ・ループ」)、ジェットコースター(晩年はスタート時に手で押していたとのこと)、ジャングルマウスなど

跡地は・・・2004年1月現在、何も決まっていないそうです(財務処理に追われる日々らしい)。全部が会社の土地というわけではないので、そう簡単にはいかないらしいです。(上信電鉄の担当者の方に伺いました)

<参考ページ>
さよならカッパピア<鉄道非主流派<いばらぎや

遊園地の「最後に見た夢」<ツーリングレポート<TrailRaidOrgabuzer's Web

面白うてやがて哀しきカッパピア編<猫とファミコン

カッパピア<動物園、B級SPOT大好き!〜ARAKAWA'S HOME PAGE〜

さよならカッパピア<Web人生

  
   
200
あやめ池遊園地(奈良県奈良市)  1926(昭和元)年6月11日〜2004年6月6日
経営:近鉄

大阪電気鉄道(後の近鉄)が、鉄道の集客目的のために作ったいわゆる「沿線遊園地」。この地は古くから花菖蒲の名所として知られていた場所で、その特徴を利用して、花菖蒲園、演芸場、小運動場などの施設を備えた「あやめ池遊園地」を開園。翌昭和2年に市川歌右衛門プロが映画撮影所を開設(昭和11年まで映画撮影が行われていたそうです)。昭和4年に「あやめ池温泉場」が開場。その頃から飛行塔などの遊具が完備されるようになって次第に発展。大阪・奈良全域からの遠足や行楽でにぎわうよになった。戦後は昭和25年に当時人気絶頂だった「大阪松竹歌劇団春のおどり」特別公演が誘致され人気を呼ぶ。昭和29年より秋に大菊人形展を開催。昭和33年には「平和のための防衛博(自衛隊関連の展示)」が遊園地史上空前の人気を博したとのこと。1975年(昭和50年)には年間来場者124万人を記録するも、その後は次第に減少に転じ、閉園前には50万人台で推移した。近鉄の経営改善策の一環として閉園となりました。

主なアトラクション:トルネイダー(ループ&スクリューコースター)、水上ログコースター ロッキー、グランカルーセル・ペガサス、ワンダートレインなど

→跡地利用については、2005年現在、未定のようです。奈良の近郊、駅前の一等地で30万平方メートルもあるとなると資産価値としてはかなりのもの。

<参考ページ>
さよなら・あやめ池遊園地<チカバ(one day trip)<RAN・RUN・CAFE

さようなら!あやめ池遊園地<想い出は永遠に・・<AyuとRyouの白いページ

6月4日あやめ池遊園地 最後の写真集<Photo Gallery <HIGH-GEARed's HOBBY WORKS!!

   
   
りんくうパパラ(大阪府泉佐野市)  1994(平成6年)年9月11日〜2004年10月31日
経営:りんくうパーク(十字屋の子会社---開園時はダイエーの子会社)

関西空港の開港(1994年9月)に合わせて、空港対岸のりんくうタウンにオープン。土地は大阪府から借地、運営の大部分をサノヤスヒシノ明昌社に委託。セガもゲームセンター(セガワールドりんくう)を出していた。開園当初は100万人を越えていた入場者数も60万人台に落ち込み閉園に追い込まれた。

主なアトラクション:大観覧車、ジェットコースター、ツインドラゴン、メリーゴーランド、わんにゃんふれあいランド、など

→跡地利用は未定(2005年夏現在)

<参考ページ>
初めてのりんくうパパラさようなら<あの場所<MoonFlyer

   
   
2005
小山ゆうえんち(栃木県小山市喜沢)  1960(昭和35)年5月〜2005年2月
経営:思川観光(株)

思川観光の社長であった林卯吉郎氏の別荘を遊園地として開業。ツツジ、サクラなど別荘時代からあった豊富な植物が売り物で、ランドマークとなった小山タワー(展望台)、国際規格のスケートリンクやヘルスセンターなどを併設していた。絶叫マシンの歴史的名機シャトルループが1980年(横浜ドリームランドの翌年)に設置されたという点が絶叫的見地から重要。最盛期には年間入場者数120万人を数えたとのこと。1992年に思川観光が倒産して、これに伴い遊園地も倒産。1998年に一旦休園となり99年夏にリニューアルオープン。ダイエーが経営支援に乗り出すも、ダイエー自身の経営悪化により2002年には支援から撤退。2004年末で一時休園に続き、2005年1月、ヨークベニマルへの営業譲渡が決定。公式サイトでは2005年2月をもって閉園とされた。

→跡地は---今後、大型商業施設の建設が予定されているとのこと。

<参考ページ>
小山ゆうえんち(オフィシャル)---閉園なのに、オフィシャルサイトが存続しているという不思議

惜別 小山ゆうえんち<鉄道非主流派<いばらぎや

小山ゆうえんちドットコム

小山ゆうえんち<動物園、B級SPOT大好き!〜ARAKAWA'S HOME PAGE〜

   
   
かごしま国際ジャングルパーク遊園地(鹿児島市) 1972(昭和47)年〜2005年7月11日
経営:長島商事

鹿児島県内最大規模の遊園地として親しまれ、1980年代の最盛期には30万人ほどの年間入場者数があったが、近年では入園者が最盛期の半分に落ち込み集客が難しくなっていた。

主なアトラクション:観覧車、ジェットコースター、クレージーマウス(垂直ループ型)など

→跡地は大型商業施設へ

<参考ページ>
鹿児島国際ジャングルパーク<子供とお出かけ!パパ今日どこ行くの?

与次郎が浜でほのぼのテーマパーク<鹿児島のホテル南洲館

さようなら ジャングルパーク遊園地<続々デートのアイディア

    

           


   

考察

〜なぜ遊園地の閉鎖が相次いでいるのか?〜

     

(1)来園者の減少により売り上げが減った。

     その原因として

a)少子化により遊園地に来るべき子供の数が減った

b)レジャーの多様化により従来型の遊園地への来場者が減った

c)「遊び」の質そのものが、時代とともに変わった

d)不況の影響で消費者の「財布のひも」がきつくなり、さらにもっと割安なレジャー
 へと人が流れた(特に小さな家族連れなどは、無料ないし低料金の施設などを
 多用するようになった---そういった「お得情報」も昔より得やすくなっている)

e)その遊園地の魅力が相対的に減った(効果的リニューアルを行えず、人気が落ちた)

その要因として

・親会社の経営が苦しい(不況などの影響)
・立地上の制約
・経営者の資質、能力の問題

(2)親会社の全体的な経営難(不採算部門の切り捨て)---特にバブル崩壊後、最近に至る
   日本の経済事情

(3)以上と平行するように、ディズニーランドとUSJの進出があった。

(4)関西では特に阪神大震災の影響も

        

以上のような事柄が複雑に絡みあって、このような事態に至っていると思われます。ただし閉鎖された遊園地の実体を眺めてみると、外からの不可抗力だけではない、大きな原因が共通して存在していたのがわかるような気もします。

それと、そもそも日本人の大人というのは、遊戯機械に乗って遊ぶのはあまり好きでない、というのも事実です。だからアメリカのようにはいかず、どうしても「お子様頼み」ということになってしまうわけですが、テレビ(コンピュータ)ゲームの進化などによって、「子供の遊びの質」そのものも大きく変わってきたために、遊園地をとりまく状況も昔とは大きく変わっているということも否定しがたい事実だと思われます。もちろん子供に限らず、大人、あるいは家族の「遊びの質」も確実に変化しつつあります。ですから、遊園地の方も変わっていく必要があるのかもしれません。

ただし、アメリカにおいても中小の遊園地はそれなりに厳しい状況に陥っているというのも現状らしく、こういったことは、必ずしも日本固有の問題ではないのかもしれません。

今後、遊園地はいったいどうしたらよいのか?皆さんもそれぞれ考えてみてください。

     

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